いとこのKちゃんが亡くなったとの連絡を受けた。自ら死を選んだと。
Kちゃんと私は半年違いの同い年。祖父母にとっては初孫(Kちゃん)と二番目(私)で可愛がられたし、お盆やお正月に祖父母の家にみんなが集まるたび、姉妹のような時間をたくさん過ごした。ふだん都会で暮らすKちゃんと田舎で暮らす私。慎重派のKちゃんと無謀派の私。育ちの背景や性格は違っていたけど、私はKちゃんと遊べる夏休みや冬休みがとても好きだったし、Kちゃんもそう感じてくれていたと思う。
小学校から中学校に上がり、久しぶりに会ういとことの接し方をお互い計らなくちゃいけない年頃になっても、距離を感じるのは最初の10分程度で、そのあとは学校の話や好きな人の話などで盛り上がっていた。私には母方のいとこが9人、父方のいとこが2人いる。その中でKちゃんは特別な存在だった。唯一の同い年かつ同性。チビのいとこたちには最年長組としてお世話しなくちゃいけないけど、Kちゃんとは友達のように付き合える。
高校1年のときにKちゃんと四国旅行に行った。 叔父さん一家が当時高松に住んでいたのだ。 私がまず東京へ行き、東京でKちゃんと合流して、2人で四国へ。乗り換えを重ねながら、電車の中でいろんな話をした。滞在中叔母さんには本当にお世話になった。当時幼児2人を抱えていたのに、夫方の姪っ子2人が転がり込んできたんだから、その労力はいかばかりか。でも嫌な顔ひとつせず、いつも笑顔で接してくれた。「若いっていいねぇ」なんて言われながら。私たちは行く先々でそんな風に愛をもらっていたんだよ。私たちは明るい未来を持つ女子高生だった。
その後アメリカの大学に進学した私と、東京の大学に進学したKちゃん。
私は結婚や出産も早かったこともあり、また孫たちの年齢が上がるにつれて祖父母の家にみんなが集まる機会も減っていったこともあり、必然的にKちゃんと会う機会も激減していく。親づてでKちゃんが生き辛さを抱えていることを初めて聞いたのは20代のころだっただろうか。仕事を辞めたこと、心の病のこと、私には分からないしんどさをいろいろ抱えていたのだと思う。
最後に会ったのはコロナ前の祖父の葬儀だ。お互い40を超えていたけど、葬儀という場だけど、久しぶりに会えたのが嬉しかった。交わす言葉なんて少なくても構わない。元気でいることを確認できるだけで十分だったりする。
Kちゃんが亡くなったと聞いたとき、それが自死だったと聞いたとき、「ああとうとう」と「なぜ」が交錯した。最終的にそっち側に行ってしまった理由がなんなのか、そもそもそんな理由が存在するのか私には分からない。分からない私には何も言えない。生きていく者は答えの出ない「なぜ」を抱えたまま前に進むしかないんだろう。
ただ辛い。
祖父母の死や親の死や親族の死で、死に少しばかり慣れたつもりでいたけど、自死は受け止め方が分からず正直戸惑っている。それでもやっぱり「なぜ」を抱えて前に進むしかない。いつか答えらしきものが見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。
Kちゃん、そっちで遊び場見つけといて。私も必ず行くから。また一緒に川遊びやトランプしよう。隣合わせの布団で恋バナしよう。